同性パートナー承認社会は、自由な家族形成も承認すべき社会に・・・

先月は、同性パートナーやLGBTに関するテーマを何度も取り上げました。
同性婚、同性パートナー承認は、結婚の多様性(ダイバーシティ)を提起する:問われるべき「結婚とは?」 (2017/6/19)
で、6月の関連ブログを確認できますが、そこでの私の基本的な考え方は、個人の
生き方の多様性・選択性・自由を尊重する立場です。

しかしそれに加えて、「結婚」とは何か、と法律上、社会慣習上どちらからもその
定義を決定し、しっかり合意形成しておく必要があるべき、ということも伝えたい
と考えています。

そこで、2017/6/29付中日新聞掲載の地方におけるダイバーシティ対応の取り組み
レポート、
「関市が同性婚にも祝い金」から、その概要を紹介します。

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岐阜県関市は、性的少数者(LGBT)に優しい職場づくりをめざすため、
市職員互助会の規約を改正し、同性パートナーと結婚と同等の関係になった場合にも、
祝い金を給付できるようにした。
尾関健治市長らが、LGBT支援団体「オンザグラウンドプロジェクト」研修を受講。
 昨年2016年8月に性の多様性を認める「LGBTフレンドリー宣言」をして以来、
市職員向けセミナーの開催、観光地の多目的トイレにLGBTも利用できる表示など
施策を進めている。

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関市の金型設計製作「早川工業」は、就業規則をLGBTに配慮した内容に改め、
「結婚」「配偶者」の定義を変え、同性パートナーを持つ社員にも配偶者手当や
弔休暇を認めることに。
ただし、
現在LGBTの社員はいないとのことです。

 

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性的マイノリティが、広く社会に認められることでマイノリティでなくなる
のか?
マイノリティと表現することには、そのことで社会的に平等視されず、不利
益を受けるから。
では、その不利益とは何か?

その一つに、男女間の結婚に際して受ける給付金や配偶者手当・配偶者控除
など、男女間の結婚・夫婦では当たり前になっている制度上のメリットを、
同性パートナー間にも受けることができるようにする。
それで不利益がなくなる、というわけです。

となると、早川工業が行ったように、結婚や配偶者の定義を変える必要があ
るわけです。

配偶者とは」 で調べてみると
「夫婦の一方からみた他方。配偶者としての身分は、婚姻によって取得し、婚姻
の解消によって失う。親族ではあるが、親等はない。」
と、法律婚を前提として、その意味を規定しているのが、日本の現状です。
そこでは、夫が男性で、妻が女性とみるのが一般的でした。

しかし、同性パートナー、同性婚を認めるとき、どちらが夫で、どちらが妻か
は、それぞれのカップルが決めることになるのか、それともそこには夫婦という
概念や感覚、相互の想いはないのか、あるいはあってもなくてもいいのか・・・。
そこをどうするかの規定について、意外にこれまで議論や説明がなされていな
いような気がします。


 

私個人としては、配偶とは、有性生殖が可能な異性間の関係を意味するもので
あり、それを前提とした夫婦が配偶者であると考えるべきと思っています。

これは身体的・生理学的な事実に基づくものであり、それを全体とした結婚と
いう社会的・法的規範は、異性間のものを意味すると考える者です。

しかし、現代は、その定義を覆し、結婚と配偶者の意味は、性的要素を排除し、
愛情もしくは気持ちと合意形成によって、誰もができる結婚、だれもが互いに
なることができる配偶者に変化した、あるいは変化を規定することになるわけ
です。

2人の人間関係の一つの在り方です。
しかし、こうした社会関係の在り方を認めることは、3人以上の人間関係の
在り方も、一つの単位社会として、すなわち「家族」として認めるべきことに
まで繋がるのではないかと思いもするのです。

いまのところそうした議論や課題が、社会的に話題となることはありません。
しかし、ロジックとしては、同性パートナーを認め、配偶者としての権利も
認めることと、家族という単位を認め、配偶なしの子どもを持ち、認めさせ、
親子関係や扶養関係まで認めることとは、異質ではありません。

極論になるかどうか、互いに愛情を持つ同性の大人3人が共同生活をすること
を契約し、そのだれかが扶養を受けるとした場合、扶養手当、子ども手当の支
給を求める。
自治体や企業もそれを認める。
それも生き方の自由としての一つの権利になる・・・。

なにをバカなことを! と思われるでしょうか。

生き方の自由としてのLGBTが広がり、人数が増えればマイノリティではなく、
マジョリティになるわけです。
ただそこで権利義務関係を含むことを前提とすると、相当の社会的な手続きと
その合意・同意・契約が破棄されたときの手続きとコストは膨大なものになる
でしょう。

人間の根源的な精神構造は変わらないでしょうから、同性・異性間、夫婦間、
家族間のダイバーシティ社会における愛憎もまた、相当のバリエーションと複
雑さが増すことになります。

もの分かりが良い、寛容な社会は、人とは何かというシンプルな問いの答えを
複雑にしていく社会でもある。
そんな気がしています。

 

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