在宅介護誘導の基本理念としての家族主義回帰への危うさ:『おひとりさまの最期』から(21)
『おひとりさまの最期』(上野千鶴子さん著・2015/11/30刊)
本書を紹介しながら、介護や医療と向き合うことが避けられない高齢者の、
人生の終末期に向かっての生き方、暮らし方、そして次の世代への橋渡し
などについて考えるシリーズです。
今回から第4章に入ります。通算第21回になります。
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4.高齢者は住宅弱者か?(1)
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<介護の再家族化>
病院にも行けないし、施設にも入れない・・・・・・このままでは介護難民、
看取り難民になる、というのが前章の予測でした。
とはいえ、世の中で起きるどんな変化も自然現象ではなく、ひとが引き
起こす社会現象です。
看取り難民になりかねないのは、現在の政治が病床は増やさない、施
設建設は抑制する、と決めているからです。
そういう意志決定をした政権を選んだのは有権者です。
うらむなら政治をうらみましょう。
というより、われとわが身を呪うしかありませんね。
政府は代わって在宅誘導にシフトしました。
死に場所は何も病院や施設と決まったものではありません。
日本の高齢者の持ち家率はもともと高いのだから、それに日本人の大
半は最近まで家で死んでいたのだから、在宅で死んでいただきましょう、
というもの。
が、しかし。
政府の在宅誘導には、「家に家族が同居していること」が前提とされ
ています。
要介護軽度者に対する要支援はずしは、そのくらいは「自助努力」で
なんとかしなさい、というもの。
この「自助」とは「家族は、互いに助け合わなければならない」とい
う自民党憲法改正草案24条にある考えを反映したもののようです。
思えば「家族の助け合い」を「自助」と呼ぶのも、妙なものではない
でしょうか。
授業で学生に、「自助」と「公助」を区別して、「自助」とは家族内
互助のことをいう、と説明したら、思いがけない反応が返ってきました。
「互助なんだから、家族の助け合いは、共助じゃないんですか?」。
なるほど。
「自助」はあくまでも自助、すなわち self help 。
自分ひとりでどうにもならないときに家族が助けてくれれば「共助」
のはず。
こういうふうに「自助」の概念がとんでもないものだったことが分か
ります。
障害児がいようが、要介護の年寄りがいようが、家族のうちだけで何
もかもを解決することを称して「自助」と呼んできたのだと。
そしてその負担のしわよせは、もっぱら家のなかの女に不均等配分さ
れていたのだ、と。
そうなれば、「自助」とは「家族」をだんごのようにひとかたまりの
ものと一体視した見方から来ていることがわかります。
「夫婦は一心同体」とか、「親子は運命共同体」といった見方です。
こういう見方を採用するのはつねに強者の側で、妻より夫、子より親
に有利な考え方であることは明らかでしょう。
政府の在宅誘導は、家族介護への誘導です。
こういう変化を介護の「再家族化」と呼んだのは、比較福祉レジーム
論のエスピン=アンデルセンでした。
介護保険は介護の社会化への第一歩であったといえますが、その成果
は二歩め、三歩めへとステップを先にすすめるどころか、油断すればた
ちまちおしもどされて退歩することさえある、という教訓を、わたした
ちは過去の経験から学んできました。
介護の社会化を「脱家族化」とも呼びますが、その変化は一方に進む
のではなく、「再家族化」することもあります。
そして「再家族化」とは、福祉予算を削減したい国家が、どこでも採
用する戦略なのです。
核家族化、少子高齢化、未婚率の高まり、独居高齢者の増加、高齢夫婦
世帯の増加・・・。
止めようのない傾向とは逆行するとしか思えない、施設介護から在宅介
護への誘導政策の根拠が、「家族主義」にある・・・。
家族形成と家族維持自体が困難になっている状況を考えると、かりにそ
の状況が、望ましいことではないと認識されていたとしても、すぐにど
うこうできるものではないことも明らかです。
であるならば、介護政策を、家族に誘導することに大きな問題があるこ
とも明らかなはず。
結婚すること、子どもを持つこと、そしてその過程を通じて家族形成し、
子どもを養育する暮らしに不安を持たざるを得なくなっている社会を改
善、改革することを先行すべきなのですが、政治は、そうした人間の
基本となる神経・感情を無視し、喪失しています。
将来に向けての基盤がぜい弱なまま、在宅介護に誘導し、家族に強制し
ている・・・。
脆弱な社会を再構築することを放棄しているからこその、介護の社会化
から、介護の再家族化への逆行。
そういうことです。
しかし、私は、施設介護が介護の社会化という方針・政策にのみ依拠し
ているとは思っていません。
旧来の家族関係に依存しない、現代における、新しい家族関係を前提と
した、介護の再家族化の要素も反映した社会化と考えるのです。
次回は、<同居家族のいない在宅> です。
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-『おひとりさまの最期』構成-
1.み~んなおひとりさま時代の到来
2.死の臨床の常識が変わった
3.在宅死への誘導?
4.高齢者は在宅弱者か?
5.在宅ホスピスの実践
6.在宅死の条件
7.在宅ひとり死の抵抗勢力
8.在宅ひとり死の現場から
9.ホームホスピスの試み
10.看取り士の役目
11.看取りをマネージメントする
12.認知症になっても最期まで在宅で
13.意思決定を誰にゆだねるか?
14.離れている家族はどうすればよいのか?
15.死の自己決定は可能か?
16.死にゆくひとはさみしいか?
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(投稿済みブログリスト)
「第1章 み~んなおひとりさま時代の到来」
第1回:団塊世代の高齢化プロセス・おひとりさま化プロセスの違い
第2回:ライフステージに必須のおひとりさまステージと予備軍ステージ
第3回:止めようもない「おひとりさま」急増社会
第4回:「子との同居」は余計はお世話
第5回:「超高齢社会で日常化した高齢逆縁、離別等おひとりさま形態の多様化
第6回:孤独・孤立背中合わせの高齢者の貧困独居生活
第7回:高齢者は、主観とエゴでなく客観と社会性をもつ暮らしを
「第2章 死の臨床の常識が変わった」
第8回:看取り、看取られ。悔いのないよう日々大切に
第9回:施設看取りの環境・状況の現実は?
第10回:死の臨床のあり方を自ら決めることができたらどうしますか?
第11回:嫁にとっての強制労働「選べない介護」と在宅介護の変化
第12回:救急病棟、ホスピス病棟、在宅ホスピス。臨床死のあり方を選択する終活?
第13回:老衰死させなくなった、しなくなった時代?
第14回:関連図書の変遷から見る、医療・看護・介護からの死の臨床
「第3章 在宅死への誘導」
第15回:社会学者の社会責任論の一面性・一義性への疑問
第16回:自分のサイフを持つようになった年金受給高齢者。年金制度の現状を確認
第17回:認知症高齢者は、患者か、要介護者か。かかりつけ医も意味不明の医療・介護一括法
第18回:医療・介護から考える高齢者の社会性と往生際?
第19回:看取りが介護職員の達成感にもなる介護施設での最期
第20回:病院死、施設死、在宅死、多様な選択死(?)。選ぶのはどれ?
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(本書で紹介された参考図書)