社会学者は社会規範が好きな、個人の価値観を認めたくない人?:上野千鶴子と水無田気流の非婚時代対談を読む(2)
以前、詩人であり、社会学者でもある水無田気流さんの書
『「居場所」のない男、「時間」がない女』をもとにこのブログでシリーズ化。
そして今度は、彼女と上野千鶴子氏の対談
『非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる』をその続編として利用。
題して
「上野千鶴子と水無田気流の非婚時代対談を読む」シリーズ
第1回:結婚・出産に合理性が必要なのか?
今回はその続きの第2回です。
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「第六章 非婚時代をどう生きるか」より-2
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<なぜ人は子どもがほしいと思うのか?>
(上野)水無田さんの例はユニークなケースだろうと思いますが、社会学者と
して考えたとき、出産がいまでもマジョリティ(多数派)の選択なのはどうし
てでしょう?
しかも産めない人たちまで努力して妊活をやっていますね。
(水無田)はい。社会的圧力や社会経済的な背景を取り除いて、なおかつ産み
たいと思う人がいるかどうかということですね。
(上野)出産も欲望ではなく、単なる慣習動機なのでしょうか。慣習という理由
からでも人はいくらでも親になれますから。
それだけのことなのか、それ以上のものなのか。欲望で説明しようと思ったら、
わたしはその欲望が理解できない。わたしを宇宙人だと思ってください。
(水無田)わたしも半ば宇宙人が子どもを産んだ感じですから、説明は困難です。
私自身、心の底から子どもが大好き、いい家庭をつくりたいというタイプではまっ
たくないので。ただ産んだ以上は、ちゃんとやらなきゃなと思って。
(上野)幸か不幸か、いまは「子どもをつくる」と言うように、出産が選択肢の
ひとつになってしまいました。少子化を憂えている人たちにとっては、子どもは
つくるべきもののようですが、強制されて産むわけにもいかない。
もし「日本民族」や「日本社会」が再生産されなければならないとしたら、婚
姻率が減っても、出生率が上がればなんの問題もないわけです。
だからわれわれの話すテーマは結婚ではなくて、出産というテーマでもよかっ
たんです。日本社会の再生産を望む人にとってはね。
(略)
(水無田)わたしの周りにも、不妊治療をしてまで産むような人たちがけっこう
いるようになりました。わたしくらいの年齢層で、なおかつ学歴もある程度高い
ような人たちです。
(上野)彼らにその理由を直接聞いてはどうですか?わたしは自分が生殖年齢の
ときに、産んだ女たちに聞いて回りましたよ、「なんで産んだの?」と。「結婚
したら産むものだと持ったから」とか「夫に頼まれたから」とか、あまり説得力
のある理由はありませんでした。
(水無田)ある程度経済的にも優遇されているし、わりとリベラルな夫がいるよ
うなタイプや、バツイチというような人たちが、なんで子どもをほしいと思うの
かを考えると、漏れ聞こえてくるのは、子どもを産まないと、なんだか自分の人
生が補完されない気がするという意見です。
(上野)それはわかりやすいよね。女性性というものを完成させるための最後の
ミッシングピースが子どもというピースで、このピースがはまらないと、日本で
は一人前の女とは決して認められない。
それは、「負け犬」のわたしが差別を受けて経験していることなので、理解で
きます。それなら欲望というより、社会規範ですね。
(水無田)でも、あるシングルマザーの女性デザイナーが言っていました。
自分は一代で死ぬけれれども、子どもに自分の思想なり生き方を引き継がせて、
持続する爆弾を社会に投げつけたかったから子どもを産んだと。
(上野)子どもにとっては、迷惑ですねぇ。
(水無田)一子相伝みたいな感じですね。仮にこのまま競争社会が激化して、 か
つ「女性の社会進出」も進みつつ、選択的未婚の母が社会に容認されれば、彼女
のような勝ち組シングル女性が法律婚の外でも再生産することが増えるでしょう。
かつては男性が社会的成功のシンボルとして、若く美しい妻をめとる「トロフィ
ーワイフ」が言われましたが、このケースは「トロフィーチャイルド」でしょうか。
(上野)その人、子どもは別人格だと思っていないんだ。問題ですよ、それ。
それは大企業のオーナー経営者が、自分の跡取りがほしいというのと、何が違う
のよ。
(水無田)かつての男性的な欲望を女性が持つようになったら・・・ということですね。
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水無田さんの例は、決してユニークなのではなく、当たり前の一例です。
「人生が補完されない」と「補完」という表現も、一つのピースや選択肢として
他や全体を補って完成させるとか、何かを捨ててこれを選ぶ、という特定した
意味だけでのこととすべきではないのでは、とも・・・。
「社会規範」という言葉に酔う「社会」学者が多くいるのが不思議です。
また、それが「社会」学者たる所以なのかもしれませんが。
個人の価値観や個人の欲求という次元にとどまることをよしとしない因果な性格
です。
確かに上野氏が感じた差別感は、社会があってのものなのでしょうから。
最後の女性デザイナーの話は、極端なことと捉えるか、こうなると男性も女性も
関係のない、普遍的なことと捉えるか・・・。
もし、男女普遍的な志向と認めると、ジェンダー論の一部、家父長制論の一部を
否定することにもつながり、面白いといえばおもしろいですが・・・。
いや、やっぱり太古の昔からあったことでしょう。
そのどちらでもいいですが、子どもの権利を考えると、上野氏の言葉は、至極
常識的ではあります。
もうひとつ最後に。
人は、なんでも意識化して行動するとは限らず、なんとなく、生きる、行動する
ということがあるものです。
すべての行動を言語化することは、ある意味、後理屈をつける部分がある・・・。
無理やり自白を強要し、無いコト、無かったコトをことさらのようにでっち上げる。
よくあること、陥りやすいコトではないでしょうか・・・。
人間を対象とした学問・研究には、ありがちなことでもあります。
もう少し、この最後の章を見ていきます。